ばいばいココログ
諸事情により、JUGEMに移転します。(諸事情といっても、たいした理由じゃないんですが。)
あ、ココを閉鎖するってことはありませんし、記事を移動させて分散させることもありません。ご安心を。
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新鬼武者をやって感じたことは、なんでこんなにすんなりゲームに入っていけるんだろうということである。従来から、FF系のシステムの難しさに辟易してたわけ(というわけでFF7以降やってない)なのだが、FF7と比べてももっと複雑になってるはずの新鬼武者のシステムを何故かすんなり理解できている。
それって、多分なんだけどあらゆる物の「名前」が日本語であり、その名前の付け方についても優れていて、見ただけで直ぐに理解できるって点なんだと思う。もちろん、ゲームの世界になるので基本的には造語なので分かり辛くなるのは仕方ないんだけど、それが例え造語であっても漢字という優れたツールを使ってるので、名前だけに色んな意図を含むことができることも影響してるのだろう。
ある概念を理解する際に名前ってとても重要で、何かを考える際に日本語を使ってる脳みその構造上、名前が日本語であるというのは、多分とても大事なことなのではないだろうか。
大雑把に言えば、以下のとおり。
「普通の日本語>造語な日本語>>>>>>>普通の英単語>造語な英単語」
そして、ある概念を理解しやすいということは、何を意味するのかと言えばゲームをする上での本来の目的である「ゲームを楽しむ」ということに集中できるということである。これが「ゲームの価値」を上げていくことに繋がるのではないだろうか。
というか、英語アレルギー気味なのであまり変な造語作らないでください。
日曜日にテレビをボーっと見てたら、谷垣財務大臣が出てる一般者参加型の番組があってました。テーマは税金。
それを見てると、増税反対の人の意見は「歳出を減らせばやっていけるはずだ」とか「自分の知り合いは借金を苦にして自殺してる。増税したら、自殺する人がもっと増える。」などと怒りをあらわにしてる感情系の人たちが居ました。
歳出を減らしたぐらいで日本の借金はなくなりません。税収が歳出の50%しかないわけですから、全ての歳出を半分に減らしてやっとで借金が増えない状況になるだけです。半分に減らすのが容易でないことは明らかです。
また、消費税の逆進性の部分に目をつけて「キャベツが値上がりしたら困る人だっている。金持ちはキャベツが値上がりしても困らないんだから、金持ちからドンドン税金取ればいい。」なんてことをおっしゃる方も居ました。消費税が逆進性を持つなんてのは、税金の勉強を数時間本を読んだぐらいしかしてない私でも知ってるぐらいの知識に過ぎませんし、金持ちは既に十分に税金を払っています。税金は「所得の再分配」の機能を持ってるので、その分も含めて十分に払ってます。(払ってないのは、所謂貧乏人な人達です)
このように、貧乏人から税金を取るというのに極端に反発する人が居ますが、貧乏人なら税金を払わなくて良いという考えの方がおかしいんです。バブル崩壊以降の日本の税制は、貧乏人を優遇しすぎました。そのため、本来なら払ってしかるべき人々が税金を払わなくても良くなってしまっています。
結局言いたいこととしては、TV番組でせっかく大臣と話ができるんだから、数時間ぐらい割いて勉強してから行こうよ。もっとまともな話しができると思いますよ。
先日行われた「Japan Blogger Conferrence」に参加してきて、そこでしきりに出てた言葉は、「パーソナルブランド」という言葉でした。(遅刻して行ったので、最初の方は聞き逃したのですが…)
これは、ブログが個人のブランド戦略を担うツールとして世間一般に認識されてきたということでしょうか?確かにそういう面はあると思いますが、「世間一般」と考えた場合には、まだまだそこまでは至っていません。
では、今後を考えた場合にどうでしょうか?今後、ブログがパーソナルブランド構築のためのツールとして使われていくのでしょうか?
今後を考えた場合、ブログを書いていく総数が増えるに従い、「パーソナルブランド」といえるほどのブランドを構築できる人の割合は減ってくるように感じます。大抵は、ブランドを構築する以前に終わってしまうか、長々と続けててもパーソナルブランドという視点から見た場合、たいした利点も得られないというブログが大多数になるでしょう。(そして、そういうブログの管理者はこう言うはずです「俺はそんなつもりでブログ書いてないから」と。)
今現時点で、確かに「価値のあるパーソナルブランド」を構築できたという実績のある人も、今後そういう実績を作っていける人も居ると思いますが、ブログというツールでそういう価値を出していける人の割合ってのはかなり少ないと思います。
実は、これに関連する話題で、その昔、FDELPHIで活躍されていた、はぶあきひろさんがタイムリーな日記を書いてたので、リンクして紹介します。
http://d.hatena.ne.jp/habuakihiro/20051217#1134794980
そもそも、一番最初に会社を立ち上げたときから、NiftyのFDELPHIな人と一緒でした。
この日記は、はてなの社長である近藤さんの次の日記を受けての日記となってます。
http://d.hatena.ne.jp/jkondo/20051215/1134601112
最近はてなでの人材採用の中でちょっとした傾向が出てきているような気がします。それは、「興味深いブログを書いている人」の採用率がとても高いという点です。
この二つを読んで感じたのは、はてなの近藤さんが書いてる内容も、FDELPHIの時代の世界から、あまり変わってないんだなあってことです。FDELPHIには凄い人達が沢山いましたが、はぶさんのように「仕事でも繋がりが出来た」という人は極少数です。
これと同じで、ブログに関与しているいくつかの会社が「ブログ書いてるから雇いました」みたいな事が例えあったとしても、そこに至るまでの確率があまりにも小さすぎて世間一般の人達には、ほとんど関係のない話です。正直、FDELPHIで書いた方がよっぽど確率は高かったんじゃないかとも思います。(というか、「記事時間の管理者」という要素を考えた場合、Niftyのフォーラムの方がブログより信頼性が高いです。)
更に、近藤社長はこのように書いています。
採用の際に自分のブログの提出が必要な企業がこれから増えてくるかもしれません。
これは、いくらなんでも言い過ぎです(^^;。こんな企業がどんどん増えてきたら、ブログで書ける内容は無難なものばかりで、ブログ自体がとてもつまらないモノとなってしまうでしょう。(それか、全く関わらないという選択をする人も出てくると思います。)
更に、既にNiftyのフォーラムという場でも似たようなことが起こっていたのに、未だに全く普及してません。ということは、「根本的に何か欠落があるのではないか」と私は考えます。
まとめに入ると、ブログを「パーソナルブランド構築のためのツール」(近藤社長の言う「履歴書」って説も含む)と考えると、そこにはブランド価値というのを考えた戦略を考える必要性が出てきて、とてもめんどくさい臭いが漂ってきてしまいます。
というか、「個人の人間性や考え方」とかは変わっていくものなのに基本的に変化がご法度な「ブランド」って概念を入れるってどうなんだって思います。それとも、「考え方や人間性」が構築し終わった人しか書いたら駄目ってことになるんでしょうか。そんなの嫌だなぁ…。
今回は、データ(主にブログの記事)の分類法の違いに関して話をしたいと思います。
ディレクトリ型とは、ある一つの記事に対して一つの属性を与えるタイプの分類法です。キーワード型とは、このディレクトリ型とは違って、一つの記事に対して複数の属性を与えることができる分類法のことを指します。
この二つの分類法は、どちらが良いとかどちらが悪いということはありません。適材適所に用いられるモノです。現在、Web2.0というキーワード(概念)の流れの中で「ディレクトリ型はもう古い」という印象を受けてしまいますが、古いのはディレクトリ型ではなくディレクトリ型を行っている手法が古いということに気付かなくてはなりません。
これを考える前に、まず「何故分類するのか?」という命題に対する、私の立ち位置を明らかにしておきます。
人が何故情報を分類するのかというと、後から情報を見つける手助けを先にしておくために分類を行います。つまり、分類することの一番重要な目的を「検索のため」と位置付けるということになります。
こういった目的に限定した場合、ディレクトリ型とキーワード型というものの優劣はそれほどつきません。何故なら、この二つの違いというのは、「後からどう探すか」という行動に影響を与えるため、その利便性は適材適所があるからです。
一般的に、ディレクトリ型は検索速度に優れる分柔軟性が欠けており、キーワード型は柔軟性が高いけれども検索速度に若干の難があるという傾向があります。
例えば、Windowsのファイルシステムを考えてみてください。Windowsのファイルシステムは完全にディレクトリ型です。Windowsだけでなく、ほぼ全てのOSが持っているファイルシステムはディレクトリ型ばかりです。キーワード型は、OSが標準装備しているファイルシステムを補完する電子ファイリングソフトを導入したりしないとできません。この場合、OSが利用するようなファイルシステムは「速度重視」ということになります(当たり前です)。
さて、上記のような基本的な概念を説明した上で、話を元の「ディレクトリ型を行っている手法が古い」というところに戻し、古いのはディレクトリ型という分類法ではなく、別の分類に対する概念が古い(というかネットとの親和性が低い)ということを明らかにしていきます。
現在ネット上で流行ってる「タグ付け」という言葉と「フォークソノミー」という言葉を考えてみましょう。「タグ付け」単体で考えると、タグで分類するというのは、一つの情報に同じ項目上で複数の属性を与えるわけですから、前述のキーワード型の考え方になります。そして、色んなところのフォークソノミーに関する説明を読んでると「タグ付け=フォークソノミー」という勘違いをしてしまいそうになりますが(実際、私もそう思ってました)、実は違います。
大雑把に理解した範囲で説明をすると、「フォークソノミー」とは「タクソノミー」の反意語にあたり、タクソノミーが個人(もしくは一つの団体)が行う分類であるのに対し、フォークソノミーは複数人で行う分類という意味になります。
では、何故「タグ付け(キーワード型)=フォークソノミー」、「ディレクトリ型=タクソノミー」という認識が産まれたのかというと、フォークソノミーという概念が複数人が緩やかに繋がって情報を分類していくという概念になるため、柔軟性の高さからディレクトリ型よりもキーワード型の方が親和性が高いからということになります。タクソノミーがディレクトリ型というのは、明らかに間違った認識であり、多分「フォークソノミー=タグ付け」というところから逆に「ディレクトリ型=タクソノミー」という勘違いをしちゃったんじゃないかと推測しておきます。
つまり、何が言いたいかというと「ディレクトリ型によるフォークソノミーも十分にありうる」ということです。フォークソノミーとタクソノミーとの違いは、分類を管理をする主体が複数であるか単体であるかに過ぎないため、ディレクトリ型を複数人が管理しても良いわけです。
ただ、その場合、ディレクトリ型による分類は柔軟性に欠けるため母数が非常に大きな数字になってこないと、「全く分類されない」危険性が高くなります。そういう意味でキーワード型による分類でフォークソノミーが使われているのでしょう。
さて、長々とここまで書き上げてから、ネットをちらっと検索したらタクソノミーとフォークソノミーって色んな言説があることに気付きました(遅すぎ)。私は英語得意じゃないので、こういう外来語は日本語にしないと分かりません。というわけで、私が無理やり日本語に翻訳してみます。
…全然、上手くまとまりません。誰か助けて!
無断リンク禁止の禁止を嫌う風潮についてで言いたいことは書ききってるんですが、世間では「正論振りかざして云々」みたいな話が旺盛に行われてます。これも流行り現象なんでしょうか。だとしたら、かなりつまんない流行です。
こういう記事を読むと、肯定したくはないんですが「日本人の社会性」みたいな話を思い出します。どういうことかというと、「自分に損がないなら、悪い行為を見ても見ぬ振りをするのが良い」という考え方を日本人はしがちで、その考え方は極めて日本人独特の考え方のことです。
これが欧米人だと、例え自分に直接関係がなくともかなり厳しいらしいです。これについては、「みんな」のバカ!無責任になる構造あたりに詳しく書いてあるので、気になる方は読んでみると良いでしょう。
まあ、「正論振りかざしやがって!」みたいなのは、正論を言えない人の言い分に過ぎないので、できるだけしない方が良いですよっと。正論で攻められるってことは、自分が間違ってるってことです。単純に間違ったときは謝ること。小学生でも知ってる人間関係の基本です。(そういえば、「オアシス運動」なんてのもありましたよね。)
最近、またもや無断リンク禁止に関する色んな記事がアップされてます。何度議論されても面白いネタで、とても興味深いのですが、読んでまとめる時間がありません。
ですが、今回の無断リンク禁止議論に関してとても気になる点があります。それは、自分自身は無断リンク禁止派じゃないけど、「無断リンク禁止などするな」という内容で指摘するのは避けた方が良いというような感じの展開です。(これって前からあったのかな。)
まとめて書く時間ないんで感想だけですが。
「それって、単なる事なかれ主義やん。」
HTMLとCSSの関係について私が知ったときに感じたことは、「情報と見た目を分離するということは、情報を閲覧する側が見た目を決めることができる」点が重要になってくるんじゃないかということでした。
その思いは、過去(2004.7.14)に書いた記事でも書いています。
もちろん、HTMLとCSSをまともに勉強すれば、私の言ってることは空論にしか過ぎません。しかし、ブログという形のある程度決まったサービスであれば、見た目を閲覧者側が決定し、自分が読みやすい表示でブログの閲覧をできるんじゃないかという欲求がありました。
さて、その「思い」を発してから1年ちょっとで状況はかなり変化してます。
なんといっても、RSSリーダーがかなりの速度で普及した点です。(当時はRSSの存在を知りませんでした。)今、改めてRSSとRSSリーダーの関係を見ると、私が過去に妄想した姿がそこに投影されてるじゃないですか。思ったとおりの路線とは言いませんが、やはり「閲覧者主体の表示」の方面に流れていくのかなぁということを、しみじみと感じてたりします。
そして、この「RSS」って概念は、ネットスケープ・コミュニケーション社が最初に提唱してるんですよね。なんて凄い会社なんだろうって思います。
http://souseiji.cocolog-nifty.com/blog/2005/10/post_4de9.html#comments
上の「名前: momo | October 8, 2005 04:40 PM」での発言において、以下のような「比喩」に関する発言がありました。
常々、議論における比喩というのは役に立たないどころか、議論が拡散するだけで有効な発言にはならないという結論を個人的に出してたので、丁度良い事例として以下の比喩に関する反論をしてみたいと思います。
日本語の「比喩-ひゆ」の意味や使い方ご存知ですか?
『例えること。ある事柄をわかりやすく説明するために、似ている事柄を借りてきて表す言い方。例文「緑の絨毯を敷いたような、芝生」といった使い方』芝生は芝生であって、絨毯ではありません。
しかし、その緑の様子を「絨毯」に例えているのです。→ 日本語には、そのような表現方法があります。
AはAであって、Bではないけれど、Aを表現するのにBみたいな感じの人とするのは「有り」。
それに対してAさんが、「ボクはAだよ。Bじゃないよ。」と、いつまでも、いつまでも、ごねることは、あまりないと思うのだけれど・・・。
■反論1
芝生と絨毯を例に出して「比喩」と述べていますが、比喩であることは私が疑問に思ってることの回答にはなりえません。
例え比喩だったとしても、私の言い分は「ボクはAだよ。Bじゃないよ。」ではなく「ボクを何故Bだと思ったの?」と聞いてる状況です。私の質問に回答できないということは、比喩となりえるほど「似ている事柄」ではないということです。
■反論2
例として芝生と絨毯の話や、AとBの話が出ていますが、今回のケースは芝生や絨毯、AやBといった物質や性質として全く異なるモノの対比ではなく、芝生と汚い芝生とか、AとしょぼいAといった感じの対比になります。
これに対して、「何でやねん」と異を唱えるのは十分に納得できる話です。
というか、上記のような同一クラスにおけるインスタンス毎の属性の違いを比喩で表現って、全然比喩にならないと思います。
例文)緑の絨毯を敷いたような絨毯
■反論3
ある事柄に関して分かり易く説明するために比喩という手法を用いるわけですが、今回のケースでは分かり易くなるどころか、説明をするべき人(そうせいじ)に混乱を与えています。そういう点で、あなたの手法を「比喩」だとおっしゃるのであれば、比喩は失敗していると言えるでしょう。
■総括
比喩ってのは、議論相手に上手く伝わるわけはないため、批判されるのを覚悟でやるもんです。その覚悟が無いならば使わない方が良いでしょう。
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